とも整骨院ストーリー

ここでは、とも整骨院をどのような思いで作ったのか、作ってからどんな事があったのか、院長細谷の人生を振り返りながらお話しさせていただきます。 ※智子さんとの馴れ初めも!?

◎第1章:とも先生の誕生を少し

1987年7月4日、細谷家の次男として生を受け、母曰く『赤ちゃんの時は、ずっと寝ている子』『良く怪我をして病院に行くと、「この子はケガじゃなくて風邪ひいてるよ」と風邪薬をもらうような子』『パンを口いっぱい入れちゃって、哺乳瓶でミルクが飲めないと泣きながら哺乳瓶を投げる子』だったそうです。

えっと、、、少し面白い子だったんですかね(笑)

父が野球をしていた影響もあり、小学5年生から野球をはじめ、ショートやセカンドを守っていました。中学では2番や4番もうち、高校では1つ上の先輩が甲子園に出場した『土浦湖北高校』へ入学。1年生では1番初めに全体ノックに入れさせてもらうなど、一見、順調に成長していました。

◎第2章:ケガを期に野球を諦め、そして治療家の道へ

しかし、1年生の秋ごろから少しづつ腰痛が起き始め、次第に悪化していき、靴下もまともに履けない、机から落ちた消しゴムも拾えないほど、辛い状態に追い込まれていました。

病院での診断名は『分離症』。練習にも参加できず、中々治りもせず、次第に気力を失っていった私は、先輩たちが春の選抜甲子園大会に出場し、帰ってきた直後に部活を退部しました。両親に『辞めたい』と話した時の私の目は『魚の腐った生気のない目』をしていたそうです。

そんなこんなで、野球をやめた後、高校生活をエンジョイしていた私に突き刺さった一言は『やりたいことも無いのに大学なんて行かせないよ』という両親の言葉。。。確かに。。。卒業後の進路を探す中で血迷っている私に、今度は兄からの助言『ケガしたときに針治療を受けていたんだから、そっちの道が良いんじゃない?』。。。これだ!!

はっきり言うと、私がケガをした時にたくさんの病院や治療院に行きましたが、ちゃんと良くなった所はありませんでした。しかし、私に芽生えていたのは『弱っている人の支えになりたい』『私と同じように痛みで思うように動けない、やりたいことを諦めている人をサポートしたい』という思いでした。

そして思いがけず鍼灸師の学校見学の”ついでに”見た『手で治す』という姿に『これだ!』とインスピレーションを受け、柔道整復師(整骨院国家資格)への道に進むことを決めたのでした。

◎第3章:『構造医学』と出会い、生涯の師と成長の師から治療のいろはを学ぶ

茨城に柔道整復師養成学校はありません。必然的に東京の学校へ行き、知識や技術を学んでいく中で出会い師事したのが『構造医学』の吉田勧持先生です。

『構造医学』は治療技術を学ぶ所ではなく、「地球上どこでも平等に働く”重力”が、生命に与える影響」を構造主義的な視点、物理学的な視点で観察してきた学問で、つまり、目の前の『なぜ?』を問い続けてきた学問です。

膨大すぎて、私が全てを学び、理解しているわけでは勿論ないのですが、『地球』という大きな環境の中で”いかにして”人間が生きているのかという所から、医学の本質である「人の健康に資する」という事をみる、壮大なロマンを感じる学問に魅せられ、現在も学び、これからも学び続けていきます。

『腰痛の治療はこう』だとか、『頸椎はこう治す』とか、世の中に技術はたくさんありますが、その前に、”そもそも、今の体がどういう状態なのか””そもそも、何が問題で症状が起こっているのか””そもそも論”を基に人を診ていくので、地球規模の正確性・安全性をベースに持つことが出来ました。

目の前の症状を取ることだけではなく、それが起こるそもそもの原因まで深く理解し、妻や両親・兄弟・友人にも自身をもって診療を出来るようになるまで成長させていただいた師に、本当に感謝しています。

ただ実際に私を1番近くで磨いてくださったのは、東京で弟子入りした『とのかわ整骨院』の殿川将吾先生です。私たちは専門家であり、職人であります。技術はもちろん、感性、言葉、実務的な患者さんへの対応やあり方まで、実際の診療を、間近で背中を見せて頂き、しっかり学ばせて頂いたのは私にとって1番の財産かもしれません。

とのかわ整骨院時代の、先輩との修行シーン。左で肌着で仁王立ちしているのが、私です(笑)

◎第4章:運命の妻、智子さんとの出会い、そして結婚へ

そんな構造医学の学びも、同じ志の仲間や兄弟子たちにも恵まれ、日々成長していく中で、中々彼女ができない私に、とある先輩からの合コンのお誘い(笑)。そこに現れたのが私の妻の『智子さん』です。

その先輩はご結婚されていて、私に女性を紹介する名目で飲み会をセッティングして楽しもうとしたそうですが、1回目で出会ってしまったので、楽しめなかったと後で怒られたのはここだけの話。ちゃんと、その先輩に仲人役をお願いしております。

『飾らず、良く食べる人だな』。そんな第1印象だった智子さんは、年下の私のお誘いを丁寧に受けて下さり、1年間のお付き合いの末に結婚を前提に同棲、その1年後に無事に結婚させて頂きました。

智子さんの同期の方々に結婚のお祝いをしてもらった時の写真です。

私にとって1番の衝撃だったのは、頂き物のカボチャを持ち帰った時に、軽い気持ちで『何か作れる?』とお願いすると、『キッシュ』に『煮つけ』に、、、どんどん料理が運ばれてくるではありませんか!ある日は『キンピラ』。ある日は『とんかつ』。完全に胃袋を掴まれて、囚われの身になったのは言うまでもありません。

ここで私の人生の最大のミッションが生まれます。

『この人に我がままを言ってもらう』

智子さんは、長女であるせいか、私が年下のせいか、いつも私の意見を尊重してくれます。逆に私は、一緒にいる人が楽しんでいるのが1番好きなので、彼女の自由な意見が聞きたかったりするわけです。

そんなこんなで彼女に自由に生きてもら事がミッションになった私は、より自由度を増すために『茨城へ帰り、整骨院を開業する』選択をするわけです。

◎第5章:地元への恩返しのため、妻と共に茨城で開業

私が地元で開業したかった理由は智子さんの事ももちろんありましたが、もう1つ、自分が学んだ『構造医学』を地元である茨城に広めたいという思いがりました。

整骨院の仕事をしている事を知っている知人・友人・親族は、何かあると東京にいる私に連絡をくれて、相談してくれることが多々ありました。そのたびに簡単なアドバンスしかできない、紹介できる院が無い事が悔しくて、『自分を育ててくれた地元に、家族に、仲間に恩返しがしたい』という思いで、茨城に帰ってきたわけです。

そして、私が院を作る過程で大切にしたかったのが、1番初めに患者さんと接する『受付』。人当たりがよく、顔も声も優しく、穏やかな人。アルバイトで良い人が見つかると良いな。。。と思って隣をみると、ぴったりな人がいるじゃありませんか!

受付には智子さんがいます。

初め、智子さんは別で仕事をする予定だったんです。ただ、現実問題、10年地元から離れていましたから、上手くいくのか分からない不安や葛藤うずまく中、公私ともに私の支えになってくれたわけです(本当に智子さんには感謝しかありません)。

人生初の自分の院の開業はもちろん不安がありましたが、自分にはそばで支えてくれる優しい妻がいる。

彼女がいてくれる安心感のおかげで、これからくるであろう困難や辛いことも、必ず乗り越えられる。

そんな自信しかありませんました。

何の前触れもなく突然に訪れた、一生忘れられないあの衝撃的な出来事が起こるまでは。。。

◎第6章:突如訪れた智子さんの大病、大変な闘病生活のはじまり

2017年9月の夜中、私が寝ているすぐ横で智子さんが突如、寄生をあげて失神しました。

原因は『てんかん発作』。歯を食いしばって口から血を流していた智子さんは病院へ緊急搬送されました。

搬送中の救急車で智子さんは意識を取り戻したのですが、病院では”何か脳の中にある”と言う事だけしか判明せず、後日、精密検査を行うことに。

そして、何度か精密検査を重ねた結果『脳腫瘍(アストロサイトーマ)』であることが判明したのです。

しかも、だいぶ大きくなっていて、水頭症を起こしかけているという状態。

医師から半年は待てないと言われたのですが、この時、西洋医学にまだ敵対視していた私は、手術をしてよいのだろうかと本気で悩みました。

手術をせずに良くなる方法はないだろうかと。。。

しかし、この時たまたま師匠とお話しさせて頂ける場があり『手術で取れるなら、取れる分だけ取った方がよいと思う』と助言をいただき、発覚した翌月には開頭手術を、一度では取り切れず10時間を超える手術を2回も行いました。

その後、放射線治療(陽子線)も行い、西洋医学で出来ることを全て、出来るだけの処置をしていただきましたが、怒涛の数か月を過ごしました。

この時にお世話になった筑波大学附属病院には、今でも経過観察へ行っていますが、本当に大変な世話になりました。

◎第7章:手術後から始まった本当の闘病と、それを乗り越えた事で得られた事

病気の発覚はもちろん衝撃でしたが、もっと衝撃だったのは、手術前よりも手術後の方が、智子さんの体が弱ってしまったことです。

手術は必要で行っていますので、それが良くない訳でなく、頭蓋骨を開いて脳腫瘍を取り除きますから、それ自体のリスクも大きいわけです。脳も顔もパンパンに腫れます。

私が最も自由に生きてもらいたい最愛の人が、目の前で自由を奪われている姿に、正直、胸の奥がえぐられるような、思い出すことすら辛すぎる事でした。

なぜ智子さんが?なぜこんな事に?なぜ。なぜ。なぜ。。。

自分に何ができる?やれる事は何がある?冷静に判断しなければ。。。

今思えば、全く冷静ではなかった状況でしたが『自分しかいない』その一心で、私は私にできることを全てやり尽くすしかないと思いました。

実はこの時、西洋医学の恩恵を受けながら、同時進行で行っていたのが、私が今まで学んできた『構造医学』を基本とした処置です。

首から頭から目元まで氷漬けでした。。。

特に1番役に立ったのが、皆さんにも処方させて頂いている”アイシング”。

パンパンになった頭を、入院中は毎日せっせと氷を運び、退院してからは防空頭巾に氷をたんまり入れて氷浸けの日々です。

初めのころは、言葉がうまく出ない、変な言い回しになってしまう、すぐに疲れてしまうなど、不安な症状はたくさんありました。

しかし、大きかったのは、夫婦二人で経営しているので、自分たちのペースで仕事ができたこと、私の両親がサポートしてくれ智子さんの負担を減らせたこと、患者さんが変わらず来てくださったことです。

そうして家族や患者さんたちの助けをお借りしながら、闘病生活を続ける中、何より智子さん本人が一生懸命リハビリ運動をしたこともあり、お陰様で今は後遺症もなく、何も心配事の無い日々を過ごせています。

関わってくれた全ての人に、そして頑張ってくれた妻に、心の底から感謝しています。

そしてこの時により感じたのは、西洋医学の大切さはもちろんですが、日々の暮らしの中には、『脳腫瘍』という大病に対してでも行えることがたくさんあるという事。

私がいつも整骨院で話をしている『冷やしましょう』『歩きましょう』は『脳腫瘍』のリハビリにものすごく役立ったと実感しております。

◎最後に:私たち夫婦が『とも整骨院』を通して”本当に届けたいもの”

私たちが『とも整骨院』を通して、地域の方々、関わって下さった方々、ご縁のある方に届けたいものは、

『体を元気にしていくと、人生が明るくなる』ということです。

うちは整骨院ですから、もちろん腰痛や肩こり、頭痛やめまいなど、体の不具合を治すところです。

安心してください、人間の体は良く出来ていて、条件さえ整えば、ちゃんと治るように作られています。

智子さんの大病も、日々の丁寧な生活のお陰で、とても順調です。

ただ、もっと大事なことは、その症状が治ったその先に、どんな楽しい日々が、充実した日々が送れるかという事です。

智子さんも、初めは食事コントロールもかなりしていましたが、元気になるにつれて好きな食べ物を好きなように食べるようになり、今では人を呼んで料理を振舞いたいとまで話している智子さんを見て、日々嬉しさが込み上げてきます。

正直私は、症状があっても、生活や仕事に問題が出ていなければ、いますぐ治療する必要はないと考えています。

もし、日々の生活を送っていくその道の途中で、その体の問題が何かの妨げになるのであれば、私たちの院はお役に立てる程に育っています。

  • 本当は元気にテニスをしたいけど、膝が痛くて諦めている
  • 子供には優しく接したいのに頭が痛くてイライラしてしまう
  • 痛みで普段の日常生活がままならない
  • やりがいのある仕事なのに、苦痛に感じる
  • 才能があるのに、ケガで諦めないといけない

『今の人生を思うように生きれない』

そう感じている方がいましたら、ぜひお声かけ下さい。

私たち二人が、先人のお知恵や学び積み重ねた知識、磨いてきた技術、培った経験、養われた心で、寄り添い、明るい未来へ共に歩んで行きます。

最後まで読んでいただき、本当にありがとうございました。

私事にお付き合いいただいた事に感謝いたします。

院長 細谷友洋

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